今までの人生で4回だけ車に轢かれたことがある。
引きの強い人間は悪いものも引き寄せてしまう、とか慰めてくれる人もいるが、どうもしっくり来ない。理由なんて多分ないのだろう。あったとしても、少しぼんやりしていた位のものだと思う。
しかし、轢かれた場所が3か国にわたるということを考えると、もしかしたら世界基準のぼんやり具合だったのかも知れない。
どの件に関しても言いたいことは山ほどあるが、中でも4回目のは酷かった。
あの時私は局留めの手紙を受け取りにいくためにパースという街の中央郵便局に向かっていた。南半球の5月は丁度街路樹が色付き始める秋の入り口で、自転車の私にはそれでなくても長い下り坂は快適だった。
交差点の青信号を突っ切ろうとした時、右折の対向車が私めがけて突っ込んで来るのが妙にはっきり見えた。
ああいう時、時間は限りなく細かく刻まれて、一秒が永遠のように長くなる。結果、全ての事象が恐ろしくスローに見える。
当時の私の愛車には、ブレーキという機構が備わってなかった。マイブームだった軽量化が極端に進行していた私には、それはただの重量のある部品の集合体に過ぎず、自転車を入手したその日にさっさと撤去してしまったのだ。それ故止まりたい時には右の踵を前輪に擦り付けなければならなかったが、無駄が削ぎ落とされた満足感の方が不便さよりも数段勝った。明らかに右だけ削れてびっこになったスニーカーも何故か私を満足させた。
しかし、私が長く慣れ親しんで来た自転車は、止まる時にはブレーキレバーを引くというシステムを導入したものだった。今まさに車が自分を轢こうとしている、というような緊急事態宣言発令時にこそ、長年積み重ねてきた反復作業とは本領を発揮するもので、私の左手は無意識のうちにそこにないブレーキレバーを探し求めた。
全てがスーパースローに見えるからといって、事態に対処できるものではない。自分もスーパースローでしか動けないからだ。リタ ヴラタスキではない、ただの凡人の私は、自分の体がゆっくり車に触れて意識が飛ぶその時まで、見えないレバーを引き続けた。何度も何度も。とてもゆっくり。
気付いた時私の上には車が乗っかっていたというのに、私は車に轢かれたのだ、という事実を認識しなかった。世の中にロマンチックからこんなかけ離れた事があって良いのか、と憤ることもなかった。
やがてどこかの親切な人が何らかの方法で車を浮かせてくれたので、私は外に這い出て立ち上がった。全身痛いような気はしたが、早く行かないと郵便局が閉まってしまう、ということの方が重要だった。私は自転車に跨がり漕ごうとしたが、自転車はもはやブレーキ以外の全ての機能も失ってただの鉄屑と化していた。
そこで初めて、私は自分が轢かれた事を知った。
やがて救急車が到着して、私は救急隊員と私を轢いた張本人(今思えばその時1回位ブッ飛ばしとけば良かった)に支えられて病院に搬送された。。。
私が入ったのは所謂救急病棟だった為、部屋はいつも慌ただしかった。
その男が私の隣のベッドに入ってきたのは多分深夜3時位だった。
血塗れで喚き散らし、6人の大人に押さえつけられたその男は、未だ自らの力では何もできない乳児のようにこの世の全てに不満を抱いている様に見えた。
もちろん、実際はそんな可愛いものではなかった。
男はとにかく自由を渇望している様で、隙有らば看護士に頭突きを食らわし、その度に部屋に鼻血と怒号がとんだ。やがて男はベッドにぐるぐる巻きに縛りつけられ、手足の自由を完全に奪われると、暴れる路線から怒鳴る路線に速やかに作戦を切り替えた。車に轢かれて多少なりとも参っていた私にとって、これはこたえた。急に震源地が隣に越してきたみたいだった。
縛りつけた男の処置が終わると、医療従事者達はそそくさと部屋を出ていった。
これは実際とんでもない事だった。縛られているとはいえ、猛獣が隣にいたら全く心安らかではない。いつその枷を引き千切って襲いかかってくるか知れたものではない。そんなスリル要らない。私は戦々恐々として朝が来るのを待ったが、こういう時、朝というのは中々やって来ない。変わらず続く獣の怒鳴り声に辟易として、もうサファリパークなんて一生行かない、何て誓いを立てた辺りで、何かが耳に入った。
それは、「WHISKEY」という単語だった。そもそも男が入ってきた時から私は身の危険を感じるばかりで、まさかそんな狂暴な男に主張があるなんて考えもしなかった。男はへべれけと言って良い状態だったし、叫びすぎて喉は殆ど潰れていたので、男の声は終いの方には怒鳴り声というよりは咆哮といった体だったが、確かによーく聞いていると何か同じフレーズを繰り返していた。
何てこった。
男が渇望していたのは自由ではなくウイスキーだったのだ。
或いは、ウイスキーと云う名の自由だったのかも知れない。
世の中にはグッドタイミングというのがあるもので、轢かれた時の着の身着のままでベッドにひっ転がされていた私のヒップポケットでは、とある小瓶が確かな質量をもってその存在を主張していた。しかも、あろうことかその小瓶には、ジャックダニエルが入っていた。。。
男のヒップポケットには大体ウイスキーの小瓶が入っている、という時代だったのもともかく、自転車はスクラップと化し私の右頬や右肩はすっかりハンバーグと化したと云うのにその小瓶が割れなかったのは、もはや僥倖と言って良かった。
当時21歳で、大概の事は失敗しても走って逃げれば何とかなる、と信じていた私は、割に迷うことなく「ウイスキーがある」ということを男に伝えた。
「飲みますか?」 「ゴウゴウ(さっさとよこせ)」
「どうしましょう?」 「ゴウゴウ(口に注ぎやがれ)」
「もういいですか?」 「ゴウゴウ(全部だバカヤロウ)」
といった幾つかの親密な言葉を交えながら、外国の明け方の病室で縛り付けられた大男の口にウイスキーを注ぐ、というこれまたおよそロマンチックとはかけ離れた作業は進行していった。それは、なんというか儀式みたいだった。
ボトルが半分ほど空いた辺りで唐突に男が言った。
「ゴウゴウ」
それは全く予期しない言葉で、私は一瞬理解できないほどだった。
男は確かに、「お前も飲め」と言ったのだ。
私は仰天ビックリしたが、誰が見ても酒でも煽らなければやってられない状況の渦中にはいた。そこで、遠慮なくご相伴に預かることにした。
ゴクリ。
いつもは甘くすり寄ってくるジャックダニエルだったが、その時は何の味も感じなかった。
けれど、気のせいだったかも知れないが、ウイスキーを飲んだ私を見て、男は心なしか嬉しそうに見えた。
ゴウとも言わない男の口に、私はウイスキーを注ぎ込んだ。
気付けば男と私の間に言葉はなかった。
「ゴウゴウ」 「ゴクゴク」
それだけで良かった。
暫くしてボトルは空になった。
男はその後、一口もウイスキーを呉れなかった。
酒は言語を越える。
初めて身を以て感じた瞬間だった。
それは理屈ではない。
酒を飲まないことが良い悪いとは言わないが、確かに酒飲み同士にしか解らない色気みたいなものはあるのだな、ということを知った夜だった。
お酒を売る商売をしていることも多分に関係していると思うのだけど、あの特別な晩の事は、今もたまにだけれど思い出す。
お店を構える、ということは基本的には待ちの商売だ。雨の日も風の日も、毎日きちんと仕込みをして店を開ける。そこにお客さんがたくさん来てくれる日もあるし、そうでない日もある。忙しくなっても何故か心が荒む夜もあるし、暇だけれど、たった一人のお客さんのおかげで忘れられない大切な夜になることだってある。
あの晩、確かに一瓶のウイスキーが邂逅をもたらしてくれた。
あんな事は当然毎晩は起こり得ない。けれど、もしかしたらそれは今夜起こるかもしれない。
お店に立っていると、ついそんな風に思ってしまうのだ。
そうなると、もう飲食店をやめられない。
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