2015年7月9日木曜日

やっぱり肉が好き。

昔の話だけれど、オーストラリアの牛の解体工場で不法労働をしていた。
朝6時から始業して、夕の18時までに200頭捌く、割にデカイ工場だった。
工場に着いて車を降りると、人は否応なく二種類に振るい分けられた。降りて歩行可能な人間と、降りた瞬間にうずくまって嘔吐する人間と。男女であるとか国籍であるとか、屈強であるとかないとか、そんな事は関係なかった。
あれだけの質量のある生き物が日に200頭お亡くなりになるそこは、言うなれば死の臭いで充満していた。それ故、その工場は半径70km以内に何もないところにあった。

当時19歳で、まだ恐いものも女心も全く理解しない小僧だった私には、当然その「臭い」を感知する機能など備わっておらずおかげでもりもり働けたが、一日中牛の内臓をかき出す単純作業には閉口した。コンベアーに乗って流れてくる牛の内臓をかき出す→ホースで水洗いする→顎の下に巨大なフックを刺す、という三工程を10mの持ち幅の中で完了させるには、体力と根性以外に、一切の感情や思考を一時的に凍結させる、みたいな特殊な能力が必要で、私にとっては何よりそれが難しかった。
しかし、救いはあった。荒くれ者ばかりが500人も詰め込まれた工場では頻繁に喧嘩が勃発した。内臓係とか箱詰め係、計量係以外の人間は、吊られた牛を手元に引き寄せるための鋭い鉤を左手首に、肉を切り落とす用のちょっとした刀みたいなナイフを右手に持っていて、ほぼフック船長化していた。ナイフは手を離せば下に落ちるがフックはそうもいかない。外すのには多少時間がかかるし、そんなことしてたらのされるのは誰の目にも明らかだったので、喧嘩は例外なくフック付きで催された。それ故毎回酷いことになったし、そのうちの何回かはついうっかりしたのか二人とも右手のブツもそのままに突入したので、凄惨といっても良い状態になった。
本当に悪いのは周りの人間達だった。喧嘩中はラインが止まって働かなくても良かったので、我々は二人を止めるどころかあの手この手で必死に煽り立て、怒り過ぎてパンパンになった監督がとんでくると即座に、作業が出来なくていかにも不服だという顔をした。

そんな職場での唯一の楽しみが昼飯だった。
そこは牛肉工場の社員食堂、ビーフステーキが兎に角安かった。
当時街で一番安いフードコートに行くと、1パウンドのTボーンステーキにてんこ盛りのライスとマッシュポテトにビールが一瓶付いて、約800円だった。この地上に天国があるとしたらここだなって思ってたけれど、その食堂では値段は更にその半額以下だった。仕事は嫌だったけれど、その食堂には永住しても良かった。
唯一の友人といっていいBinksは場内で3番目に腕が良くて2番目に強くて気の短さは1番という暴れん坊だったし、持ち場が隣のPatrickは暇があれば有事に備えてナイフを研いでいたし、直属の上司Edwinは水筒にラム酒を隠し持っていた為いつも妙に甘い香りを漂わせていたし。どちらかと言えば環境良好とは言い難いその職場において、完全弱者である私にとって肉というのは力そのものだったし、「肉を食べる」という行為は、「生きる」という行為そのものだった。
当時19歳で、肌の白い女の子の事と、どうやって日本に辿り着こうかという事で頭が目一杯だった私は、当然そんな小難しいことに考えが及ぶ筈もなかった。けれど、仕事柄一切の牛肉が食べられなくなってサラダや揚げた魚をモソモソ食べている先輩達を尻目に、親の仇でも取るかのような勢いで飽きもせずガブガブとステーキを食らった。これといった理由なんてなかった。全身が肉を欲していた。胃に落ちた肉は確かな質量をもってやがて熱となり、身体中を巡り、私に活力とやる気を与えた。そうして得た力を、私は全力で午後の喧嘩の応援に当てた。

今思えばこれが私のビーフステーキの原体験かもしれない。

肉は人を裏切らない。きちんと食べた人の身になるような肉を提供できたら良いな、何て事を考えたり考えなかったりで、今日も肉を焼いております。

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