2015年9月3日木曜日

結局どうでもいい話しか書けない……。

やけに涼しい、悲しくなるくらい澄み切った朝にしみじみ思うのです。
椎間板ヘルニアになった事で初めて分かった事もあるんだな、と。

痛みに対する感覚の鋭さ鈍さ、というのは個人差が大きいという事は、若い頃に彫師の方から聞いた事がありました。で、私自身はどうも、かなり鈍い部類らしい。
確かに今まで、映画のように気前良く斬られてみたり、夢のようにたくさん折れてみたり、冗談のように轢かれてみたり、千切れてみたり焼かれてみたりと思い返せば実に多彩な傷付き方をして来たけれど、痛みに悶絶した、という記憶はないのです。勿論ある種の時には脳内に然るべき物質が分泌されているから痛みを感じないのだろうけど、ある時から痛みを感じない様にするコツを覚えたと思うのです。

あれは確かオーストラリアに初めて行った時のこと。
当時のパースには、裸足で生活している若者がたくさんいた。当時の私は19歳の誕生日を迎えたばかりの若造で、その年頃の若者の多くの例に漏れずソローやらケルアックやらギンズバーグに傾倒していたので、因習的で安易な物質文明への反発、或は体制の中で歪められた人間性の解放の象徴としての裸足生活の実践が、衝撃的にカッコ良く見えたのです。

で、早速翌日から裸足で暮らしてみた 。
のですが、思ってたよりコレがずっと痛い。それまで気にも留めなかったけれど、世の中の至る所には針の筵の様に尖った小石が散らばっていて、物心ついてから10余年、靴という鉄の鎧に護られてきた私のヤワな足裏は、いつも道の片隅で虐げられている小石君達の恰好の餌食となったのです。
これでは近所のカフェに行くのも一苦労。おまけに大変な思いでようよう辿り着いた足の裏安全地帯であるカフェには靴を履いてなければ入れない決まりだったから、入口でヒップポケットにねじ込んであったスニーカーを引っ張り出して着用するという…。
しかし、若かりし頃の私は、一度始めた事を痛いからとか矛盾だらけだからとか、ポケットの口がビロビロになるからと言ってすぐに引っ込める訳にもいかず、我慢し続ける事一カ月、ある日気付いたのです。足の裏に力を入れるから痛い、という事に。突っ張った足裏の皮には小さい石でさえ実質より大きい存在感を持って突き刺さってくるのだ。逆に、力を抜いて足裏の皮を柔らかくしておくと、何というか、石を包み込むというか、痛みそのものを包み込んでくれるのです。
この小石メソッドが、何と大概の痛みに有効。
痛い時に一度痛みから距離を取って深く息を吸うと、痛みを呑み込める、というか。
まあ、いわゆるちょっとしたコツです。

この術を以て私は、人生に雨槍の如く降り注ぐあらゆる痛みに対応してきたのです。
そして、恐ろしい事にそんな私にしてみたら骨が折れた位で仕事を休もうとする部下なんてただの根性なしだったし、40度そこそこの熱で出勤して来ない上司なんてただの給料泥棒だったのです。
そう。
私には他人の肉体的な痛みが解らなかった。(心のやつはちゃんと解るんですよ)
痛いならあらゆる手段を講じて痛くない状態にして来るのが当然で、それで仕事に穴を開けるなんてやる気がないに過ぎない、と本気で思っていたのです。

二年前の夏、私の腰は長年患っていた坐骨神経痛から椎間板ヘルニアに昇格を果たした。
同じ腰痛とはいえこの二つはもう劇的に違う。椎間板が飛び出ちゃう位違う。
その朝、目が覚めた瞬間から制御不能の痛みが脳天を直撃し、制御出来ないという初めての事態に心は動転した。しかし、あらゆる痛みは自らの精神の状態をコントロールすることで飼い慣らす、ということしか知らない私の気の毒な脳ミソでは、病院に行くという高尚な選択肢は思いも浮かばず、ましてやトラムセットという蠱惑的な錠剤の存在など知る由もなく、結果私はほぼ二日の間文字通りのたうち回った。
三日目の朝、痛みは酷かったけれど、制御出来る範疇まで帰ってきた。そこで私は病院に行けばいいものをダイナーに出勤した。職場というのは自然に緊張するもので、ユニフォームに袖を通すと身体の多少の不具合は感知されなくなる、ということを私は知っていたのです。
ところが、営業が始まっても歩行がままならないどころか支えがなければ立っていることも困難で、結局私はその晩、全くの役立たずだった。

その晩を境に考え方が変わった。
自転車で転げて鎖骨が折れた、と言われても、鎖骨の一本や二本でピーピー言うんじゃないよ、と思わなくなったのです。私にしたらそれは骨が折れただけにしか感じないかもしれないけれど、当人にしたらヘルニアを発症したとき位痛いのかもしれない。ホントは立ってるのも辛いのかも知れない、という風に。

人の痛みが何となくでも分かると人に優しく出来る。
人の有り難みも分かる。
そうすると、今度は人に優しくしてもらえる。

何と良いことずくめ。

しかし、ここまで書いてなんですが、こうやって改めて文章にして読み返してみると、要は、皆さんが小学生の頃には出来るようになったことを私は35歳まで出来なかった、という実にどうでもいい話を書いていたのだ、という事実に気付かざるを得ず、自分でも驚いている次第です。書き出した時は今日こそ良い話を書ける、という予感に満ち溢れていたのに。。

因みに余談ですが、私の裸足生活はその後、ヒッチハイクでオーストラリアをぐるっとしてシンガポールに戻り、国境で捕まったり詐欺にあったり飛び込みチャンピオンになったり材木船に忍び込んだりマラリアになったり牛の内臓を掻き出したり懺悔して後ろに倒れたり、と、紆余曲折を経て日本に帰りつくまで続いたのですが、真夏の東京の灼熱のマンホールを踏んで両足裏に巨大な水ぶくれをつくった事をきっかけに終焉を迎えました。
因習的で安易な物質生活を満喫している今となっては、若かりし頃の良き思い出です。

コンクリートジャングル恐るべし。

2015年8月24日月曜日

私の恐怖体験、或は私は如何にしてINNISFAILというその街を出たか。

その教会は通りを少しだけ山の方に入ったところにあった。
少しだけ、と言っても、割と田舎の街の話なので、夜になると車のヘッドライトか教会から漏れてくる光しか辺りを照らすものはなかった。
真夜中になって全ての灯りが絶えると、辺りは丁寧に塗り潰したみたいな黒に覆われてそこには教会どころかそこに続く道すらもないように思われた。

夜の集会は毎週日曜日に執り行われた。
毎週日が暮れた頃、私は居候先の家主であり仕事の先輩でもあるジェイソンとパトリックに連れられて、その教会に渋々足を運んだ。

私はクリスチャンではないが聖書を読んだこともあったし教会に足を踏み入れたことだって何度もあった。内容に共感するか否かはともかく、人々がなにか一つの共通の意識、目的を持った場にいる、というのは何というか、特に何も持たずフラフラしていただけの私を清々しい気持ちにさせてくれた。それに、きちんとした自然の材料を使って造られた建物の中に居るのはそれだけで心地良かった。石造りの高い天井に余韻を残す靴音や、夏でもしんと冷たい木の長椅子が私は好きだった。
それ故、私の中で教会というのは「良い」場所と認識されていた。

にもかかわらず渋々なのには理由があった。

その教会の集会には、私の嫌いな件がひとつあった。
それは、ありがたいことに神に選ばれた3人(私には罰ゲームの被害者としか思えなかった)が、壇上に出てこの一週間で自分が犯した罪を告白して許しを乞う、というものだった。ジェイソンは恐ろしく気の短い男で職場でも路上でも割にいいペースで人を殴ってみたり、仕事中に左手首に付けた牛肉用のいかついフックの使用対象を誤ってみたりしていたから懺悔のネタに事欠かなかったけれど、 私なぞは仕事は恐ろしく真面目にしていたし、大それた悪事を働くような度胸も無かったので、もし自分が指名されたらどうしようか毎回気が気でなかった。参考にすべき多くの善良な皆さんは、火曜の口論の際に妻にごめんと言えなかったとか、水曜の夕食を残してしまったとか、木曜の朝に10分寝坊したとか、私からしたら人前に出て許しを乞う必要等およそ無いような事をやけにしんみりした口調で並べ立てるだけで、それらに何の罪悪感も感じない私には真似のしようもなかった。
一番の問題は、その後の「退治」の件だった。
選ばれし3人が告白を終えると、右端の人間から悪霊(?)の退治が執り行われる。
罪人の目の前には牧師(神父だったのかもしれない)が立ち、後ろには跪いた信徒の男が二人、もうお前を逃がさないぞ、とばかりにぴたりと付く。
牧師、彼の額に手をかざす。そしてかけ声。「ハッッ」。罪人、後ろに仰け反って倒れる。二人の男、罪人をキャッチして抱え起こす。罪人、やけにスッキリした顔。そして宣誓。明日からは神の導く道に則って正しく生きます。一同、拍手。
簡単に言うとこれが一連の流れだったが、場合によっては、倒れた所で罪人がそれこそ何かに憑かれた様にのたうち回って苦しみ出したり、後ろの男がキャッチし損ねて場内に鈍い音が響き渡ったり、一部イレギュラーはあった。

私が恐れたのは、公衆の面前で自分が悪いと思ってもないことをまるで悪いことをしたかの様に虚偽の申請をしなければならないことであるとか、得体の知れない気功みたいな力で後ろに吹き飛ばされることであるとかではなかった。ましてや、後ろの男がキャッチし損ねて後頭部を堅木の床にしたたかに打ち付ける事でもなかった。
私は、掛け声の直後に、私の身に何も物理的な現象が起こらない事を恐れていた。

しかし、恐れている事というのは、往々にして現実になるものだ。

その教会に行き始めて8回目か9回目の晩、その時はやって来た。
予期していたよりも早いようにも思えたし、遅いようにも思えた。何れにしろ、私はいつかその時が来ることを知っていた。

牧師に指名を受けた時、私の頭の中は文字通り真っ白になった。
考えなければ、という意識はあったが、実際何も考えられなかった。私は操り人形のように自分の意志とは無関係に歩き、壇上に登ったが、何が私を操っているのかは知る由もなかった。
順番が来てマイクを渡された私は、かねてから考えていた通り、一昨日の仕事中に手を抜いたことを詫びた。それはいい加減な嘘だったが、「悪いことなど一つもしていません」という勇気が私にはなかった。きちんと懺悔した私には盛大な拍手が送られた。
そしてその後、いよいよ最も恐ろしい瞬間がやって来た。
牧師が私の額に手をかざしたときに既に、私には何故かその直後に私が最も恐れている事が現実になることが解ってしまった。
そして、実際にそうなった。

牧師の掛け声の後、私の身には何の変化も起こらなかった!

私はただそこに立っていた。
私の脳みそは未だその業務を放擲したままだったが、私の全身の皮膚は恐ろしい程の負の空気を感じ取っていた。私は牧師の方を向いてた為皆には背を向けていたが、場内がしんとした事や空気の温度がすっと下がったこと、皆が、例えば殺意に限りなく近い思いをもって私の背中を眺めていること位は解った。私は突然、夜中に真っ黒になった教会を思った。そこにはそこに続く道はおろか、出口さえなかった。中で何が起ころうとも外界には漏れようもなかった。
そこで私は、初めて本当に怖いと思った。

気が付くと私は天井を見上げていた。私の身体は二人の男によって支えられていた。私はどうやら後ろに倒れたようだった。
つい先程まで恐怖の根源だったみんなは、本来の姿に戻って拍手していた。
いや。
もしかしたら私の背中を眺めていた時のみんなの方が本当の姿だったのかも知れない。
いずれにせよ私は上手くやったようだった。
私の周りには祝福の握手や抱擁を求める人達で溢れ返っていたけれど、依然思考回路の停止していた私が如何に振る舞ったかは記憶に残っていない。
極度の緊張から解放された私にはちょっとした山くらいの疲労感がドサッと降りかかってきてすぐにでも寝てしまいたかったが、ジェイソンやパトリックと同じ屋根の下にいる以上もはやそれは望めなかった。ジェイソンもパトリックもあの殺意の群衆の一部だったかと思うと、私にはもう何を信じて良いのか判らなかった。

翌日、私はいつもと同じように二人と一緒に出勤して、いつものように働く振りをしつつもこっそり経理にそれまでの給料を貰い、そのまま何も言わずに工場と街を出た。
バリ島でほぼ全財産を騙し取られて国に帰る飛行機代のために違法労働に従事していた私に、みんなとても良くしてくれた。ジェイソンやパトリック、その他多くの人達にお世話になったけれど、私はそのうちの一人にも挨拶もお礼も言わなかった。

私は知った。あの晩私を否応なく壇上に引きずり出したのが「恐怖」だった、ということを。
それは、それまでに私が識っていた恐怖、例えば、今からとっても痛いことをされる、みたいな恐怖とは全く異質の恐怖だった。もしかしたら、幼い頃夜に対して無条件に覚えた恐怖に似ていたのかもしれないし、自分という存在そのものを抹消されるような、より根元的な恐怖だったのかも知れない。
私はただただ怖かった。とんでもない不義理を犯してまでも、街を逃げ出して遠くに行かなければならなかった程。

確かにあの晩、ルールを破ったのは私だった。
ただ、私には何の悪気もなかった。私のそれまで生きてきたのはわざわざ罪を見つけ出して申請しなくてもよい世界だったし、掛け声と共に後ろに倒れる演技も必要としない世界だったのだ。

世界が外界と遮断されたところで完結してしまうのは恐ろしい。
それが完成すればするほど、そこにそぐわないものに敏感になる。ウイルスが入り込むとすぐに排除しようとする人間の身体に似ているのかも知れない。

牛肉工場に通う道すがらに、MUNDOO(マンドゥー)という街があって、我々3人はいつもその街のスタンドで朝のコーヒーとミートパイを買う習慣だった。
現在私の知っている方で、その思い出の街の名に非常に良く似た名字の男がいて、その方と会ったりその名前が話題に上ったりすると時々だけれど、連鎖してあの時の事を思い出す。

あの朝、あの街から逃げ出さずにもう暫く留まっていたら?
あの時、後ろに倒れなかったら?悪いことなどしていない、と言っていたら?

もちろん答えなんて出ようもないのだけど。

2015年8月21日金曜日

ダイナー五周年にあたって思うこと。

この秋に護国神社で開催される手創り市の選考結果発表日、ということですっかり忘れていましたが、先日8月10日より、テキーラダイナーは開店してから6回目の夏に突入致しました。

お祝いに来て頂いたり連絡を頂いたり。ありがたいことだと思っています。節目なんだからきちんとイベントとして形にしなきゃいけない、なんてお叱りを頂いたりもするのですが、そんな言葉すらも嬉しく頂戴致しました。
何故何にもやらないのかと訊かれれば、何だか気恥ずかしかったり、毎年夏は殊更忙しく営業させて頂いたり、なんて言い訳にもならないような言い訳はたくさん出てくるのですが。正直なところを言うと、私の中では初めてのお店を開けた8年前の4月27日の方が大切に思える、というのが本当のところかも知れません。
そんなセンチメンタルに過ぎる私情はさておき、然るべき期間多くの人に優しくしていただいてすごく嬉しく思っています。

お店というのは人に優しくなければならない、なんて思うのです。
でも、比較的ガサツな私にはキメ細やかな粋な計らい、みたいな事は毎日毎日は出来ない(そりゃ私にだってたまになら出来ますけど)。ならばせめて優しくないことをしないようにしよう、と。じゃあお客さんに対して一番優しくないことって何かって考えると、やっぱりお店をやめてしまうことだな、って思い至るのです 。
全てを同時にバランス良く出来る人というのがいて、私も随分そういうのに憧れた時期があったのですが、私はそうはなれなかった。あれもこれも同時に出来ないならどうしても優先順位をつけなければならない。つまり業態とかスタンスとかコンセプトとか、そういったことに重きを置きすぎて店を潰してしまうよりは、上手くいかないこと、上手く出来ないことは臨機応変に変更して、とにかく長くお店を構えていられるようにしよう。
そんな8年間だった様に思います。

「本店」から「ダイナー」に移行した直後、私の未熟さ故に店の内容を根幹から変えなければならなくなった時に離れていってしまったお客さんは少なくなかった。今でもガッカリさせて申し訳なかったと思う事があるのですが、結果それ以上のお客さんがダイナーを好いてくれた。
そうしてまた夏を迎えられた。
感謝のしようもないありがたいことだと思っています。
私にとっては、ダイナーを「五年間営業出来た」という事よりも、ダイナーの「五年と一日目の営業準備が整った」事の方にどうしても意味がある様に思えるのです。そして「営業準備を整える」には愛すべき現役スタッフや卒業スタッフの力が必要不可欠だったし、それはこれからも変わらないと思うのです。
みんな厳しい中良くやってくれてありがとう。

素行が悪いとか(私はそうは思ってません)人相が悪いとか(私はそうは思ってません)酒癖が悪いとか(反省してます)、そんな悪評ばかりの絶えない私ですが、一つこれまで通り仲良くして頂ければ、なんて思っています。

2015年8月7日金曜日

ヘアカラーについて。

あまのじゃくだと思うのです。
殊若い時分は極端だった。
みんながしていることはそれがどんなに魅力的に見えてもしたくなかった。
おかげで煙草も吸わずに大人になったし、金髪や茶髪にすることもなくずっと黒髪で通してきたのです。

そんな私ですが、この度、この歳になって人生で初めて染髪する運びとなりました。
辛く悲しい事があった訳ではありません。商売が上手く行かずにやけっぱちになった訳でもありません。忘れたい一夏の恋がある訳でもありません。
私が大変大事に思っている、将来が楽しみなスタイリストの卵の練習台です。

何色にするの?と聞かれますが、私も知らないのです。
「飲食店勤めだから清潔感のある感じで」としか希望は出してないのです。
あ。「折角やるなら出来ればカッコ良くしてね」とも言いました。
「(一部の前衛的なお婆様方に散見される)かき氷のシロップとおぼしきビビッドなブルーやパープルは避けたい」とは強く思ったものの、口には出しませんでした。

とにかく皆さん、次にお目にかかる時には私は場合に依ったら突飛な髪色になってるかもしれませんが、決して40手前にして急にはっちゃけた訳ではないですよ。
若者の輝かしい未来の礎になっているだけです。
輝かしい未来の礎になっているだけです。(二回言った。。)

万が一ダサかったらスタイリストに言ってください。
その場合は私も急に被害者気取りで文句言いに行きます。
そしてまた、これぞ、という色にしてもらいます。
我々は決して諦めません。勝つまでは。(何に。。)

余談ですが私、礎仲間(大人)を募集しております。
若きスタイリストにあなたの頭を貸してやって下さい。
何故大人かというと、練習台とはいえお代が発生するからです。
因みに彼女は卵である故にシャンプーとヘアカラーしかしてはいけないので、そこのところを考慮頂ければ、と思っています。

2015年7月28日火曜日

これでもだいぶ短くしたから許して。

映画を観る限りイタリアのマフィアの皆さんというのは随分と手荒い様に見受けられるが、私もまったくそう思う。
勿論私はそんな本職の皆さんとどうこうなったことはない。ただ、少々やんちゃで少なからぬユーモア精神も併せ持ったイタリアの方々と、若干の交流を持ったことがあるだけである。

その人たちは隣の店に勤めていた。
というか、社長のガローネを始め末端の従業員に至るまでイタリア系の移民で構成されていたから、そんなイタリアンなお店が隣にあった、と言った方が正確かもしれない。
原則、彼らは陽気だった。どれ位陽気かというと、私の車のガソリンタンクに水を80リットル注ぎ込む位だ。

あれから17年の月日が流れた今だから認めるが、事の発端は私にあった。

当時私の勤めていたレストランは、一つの建物を均等に三分割したテナント物件の真ん中にあった。正面向かって左側にはベジタリアン達が集うカフェがあったがそこは既に制圧済みで、私たちの次なる敵は、向かって右側に位置するイタリアンレストラン「ガローネ」だった。
そう。全ての21歳がそうであるように私達もまた、自分達が生きていることを立証するための敵を必要としていて、よせばいいのに夜な夜な敵ばかり探し歩いていた。
私達、というのは同僚のチャン(韓国籍)とメッシ(イタリア籍)、チャンの親友のロメオ(韓国籍)で、誰も面白いことを言わないくせに、私達は何故か気が合った。
チャンは本名で、メッシは本当はロッシとか何とか言う名前だったが、かつてとある罪を犯した代償としてゴミ箱に詰め込まれた事件以来messy(=汚い)と皆に呼ばれていた。ロメオは当時付き合い出した彼女(韓国籍)のイングリッシュネームがジュリアだったと云うだけで、ある日急に「今日からオレの事はロメオと呼んでくれ」等とほざきだした変わり者だった。後に私がジュリエットじゃないのに何でロメオなんだ?と投げ掛けた問いに対する彼の答えは、「あ。間違った。」であった。

いや。話が逸れてしまった。

そう、店の立地の話である。
店の建物の前には3店共用の駐車場があったのだが、暗黙の了解のうちに、自分の店の真っ正面に位置する6台分のスペースが、それぞれのお店の専有駐車場と見なされていた。が、この駐車場は従業員だけでなくお客さんも使うので、忙しい週末などは争奪戦が頻繁に起こった。我々は自店の駐車場が一杯になると隣のカフェの駐車場を堂々使ったが、それでも足りない時がたまにあった。
そんなとある金曜の夜に、私はその晩珍しく暇そうだったガローネの専有スペースに車を停めてしまったのだ。
イタリアンな専有スペースに無断駐車すると車のタイヤは燃やされる、なんて大人になればみんな知ってることだけれど、若かった私にはそんな初歩的な常識観念すらなかった。

その日、仕事を終えて外に出ると、駐車場で何かが燃えていた。火を見るだけで嬉しくなってしまうような年頃だった私は、こんな大発見はないとばかりにワクワクしてチャンとメッシを呼びに行った。火を見ると案の定二人とも大喜びで、無駄に粗大ゴミを漁ってきては火にくべて、そんなに飲みたくもないビールをガブガブ飲んだ。我々は滅多にない駐車場での焚き火の機会を最大限に堪能することに必死で、一体何が何故、最初に燃えていたのか考えようともしなかった。

一人くらい気付けよ。。。

それ故、宴がお開きになって車に乗ろうとしたときの私の落胆ぶりはひどかったし、二人の喜びようも尋常ではなかった。チャンはニヤニヤしながら追加のビールの栓を開け、メッシは路上でのたうち回って大笑いして、直後に全く別の理由でのたうち回る羽目になった。

私の愛車の右前輪は、そこにひっついていなければならない筈の本体から一人立ちして、すっかり異臭と煙を放つ黒い塊と化していた。タイヤ君の一人旅は、最悪の結果に終わったように見えた。4つしかないタイヤの1つを焼失した車は何だかとても悲しそうに見えて、私は怒りよりもむしろ酷い悲しみにうちひしがれた。クルマ君に大変申し訳ない事をしたような気になったのだ。

が、夜が明けて陽が昇る頃には私は復活した。
即ち、激しい怒りが悲しみに取って代わった。
いや。その時分の私は知らなかったが、いつだって激しい怒りは深い悲しみの後に来るものなのだ。

私はその日、一日中プンスカしながら働いた。上司も他の同僚もみんな事情は知っていたが、私に話し掛けても慰めても私が無言でプンスカしているだけなので段々面倒くさくなったようだった。私の嫌いな西洋圏独特の「やれやれ」とでも言いたげな両腕を大きく左右に開くジェスチャーも、その日に限っては私を煩わせる事はなかった。
私のプンスカ具合は既に最高潮にマックスだったのだ。
仕事を終えてお隣のイタリア諸兄が帰るのを待ち、我々は早速ガローネ所有のメルセデスのタイヤを捨てた。私は一つで充分だったのだが、面白そうな匂いをいち早く嗅ぎ付けて出張ってきたロメオがそれじゃダメだとしゃしゃってきた。彼は、「ALL FOR ONE ! ALL FOR ONE!」とどこかで聞きかじってきたフレーズを連呼していた。我々には何の事かさっぱりだったが、どうも、四輪とも外しちまえ、ということらしかった。FORとFOURを勘違いした上に、明らかに意味も解ってない彼に説明するのは面倒だったので、我々は結局四輪とも、たまたまそこにあったつるはしとグラインダーで切り刻んで捨てることにした。

これにて一件落着。
な訳はなく、翌昼には私の車のフロントガラスには4ダース程の卵がこんがりと焼き付いて香ばしい匂いをたてていた。オーストラリアの容赦ない陽射しを受けたフロントガラスとボンネットである。かんかんに空焼きしたフライパンみたいになっているのである。連中がそこに気の利いたオリーブオイルを引くか?答えはノーである。かき混ぜられてぶちまけられた大量の卵はそれは熱い思いをしただろう。あっという間に焦げ付いたことだろう。結果私は新しいフロントガラスに取り替えた上、ボンネットは暫くの間食べ残しのひどい朝食皿みたいな状態で過ごさざるを得なかった。

これに怒ったのはロメオだった。
彼は職場も違ったし当然私の車に対する如何なる責任も負うところがなかったが、彼は怒り(と、今思えばある種の喜び)にうち震えていた。
彼は我々が止めるのも聞かずにその晩単独でガローネのメルセデスのオイルを抜き、その報復として翌日、私の車のガソリンタンクには80リットルの水が注ぎ込まれていた。

だからやめろって言ったんだよ。。。

優秀な奴ほど仕事が早い、とは言うが、これは私の予想より遥かに早かった。
昨日は原価をかけた嫌がらせだったのに今日は0円かよ、なんて不平を言っている場合ではなかった。
そしてこのレスポンスの早さは私の心を挫くのに充分だった。
良く良く考えてみれば損しているのは私とガローネだけで、儲かっているのは車屋だけだった。あとの連中は実際楽しんでいるだけだった!奴らは焚き付けるだけ焚き付けておいて結果私がしょんぼりするのを見ては憤って見せたり慰めてみたりして遊んでいた。
車屋も車屋でトムとジェリーみたいな男で、いかにもお気の毒と言うような体で度々私のところに来たが、いつだって両の眼がドルになっているのを私は知っていた。
「四駆車のタイヤだからちょっと値が張るねぇ(チャリーン)」
「こいつは古い型だから取り寄せに時間が掛かるよ(チャリーン)」
「何たって今日は日曜だからねぇ(チャリーン)」
「これは……水だね……(チャリーン)」

結局その晩私はディナー営業中のガローネに文句を言いに行き、ガローネは不遜な態度でそれを許した。
どうも彼らも驚いていたらしい。見せしめに燃やした筈のタイヤ。まさか自らそこに木をくべて嬉々としている日本人がいる、と。
私はただ、知らなかっただけなのに。

若かった私は謝ることが大嫌いだったが、ガローネが先に頭を下げた事に少なからぬ満足を覚えて、謝罪の言葉を述べた。そして、握手までした。
金もかかったし手間もかかったけど、今回は痛み分けってことで。
そう思った。

その暫く後に、隣街のカフェで私の車屋とガローネがお茶をしているのを見るまでは……。

明確な落とし処を出来るだけ早い段階で作っておくこと。
ガローネが私に教えてくれたこと。

今日は、そんなどうでもいい話でした。

 

2015年7月13日月曜日

また長くなってしまった……。時間あるとき読んでね。

今までの人生で4回だけ車に轢かれたことがある。
引きの強い人間は悪いものも引き寄せてしまう、とか慰めてくれる人もいるが、どうもしっくり来ない。理由なんて多分ないのだろう。あったとしても、少しぼんやりしていた位のものだと思う。
しかし、轢かれた場所が3か国にわたるということを考えると、もしかしたら世界基準のぼんやり具合だったのかも知れない。

どの件に関しても言いたいことは山ほどあるが、中でも4回目のは酷かった。

あの時私は局留めの手紙を受け取りにいくためにパースという街の中央郵便局に向かっていた。南半球の5月は丁度街路樹が色付き始める秋の入り口で、自転車の私にはそれでなくても長い下り坂は快適だった。
交差点の青信号を突っ切ろうとした時、右折の対向車が私めがけて突っ込んで来るのが妙にはっきり見えた。
ああいう時、時間は限りなく細かく刻まれて、一秒が永遠のように長くなる。結果、全ての事象が恐ろしくスローに見える。
当時の私の愛車には、ブレーキという機構が備わってなかった。マイブームだった軽量化が極端に進行していた私には、それはただの重量のある部品の集合体に過ぎず、自転車を入手したその日にさっさと撤去してしまったのだ。それ故止まりたい時には右の踵を前輪に擦り付けなければならなかったが、無駄が削ぎ落とされた満足感の方が不便さよりも数段勝った。明らかに右だけ削れてびっこになったスニーカーも何故か私を満足させた。
しかし、私が長く慣れ親しんで来た自転車は、止まる時にはブレーキレバーを引くというシステムを導入したものだった。今まさに車が自分を轢こうとしている、というような緊急事態宣言発令時にこそ、長年積み重ねてきた反復作業とは本領を発揮するもので、私の左手は無意識のうちにそこにないブレーキレバーを探し求めた。
全てがスーパースローに見えるからといって、事態に対処できるものではない。自分もスーパースローでしか動けないからだ。リタ ヴラタスキではない、ただの凡人の私は、自分の体がゆっくり車に触れて意識が飛ぶその時まで、見えないレバーを引き続けた。何度も何度も。とてもゆっくり。

気付いた時私の上には車が乗っかっていたというのに、私は車に轢かれたのだ、という事実を認識しなかった。世の中にロマンチックからこんなかけ離れた事があって良いのか、と憤ることもなかった。
やがてどこかの親切な人が何らかの方法で車を浮かせてくれたので、私は外に這い出て立ち上がった。全身痛いような気はしたが、早く行かないと郵便局が閉まってしまう、ということの方が重要だった。私は自転車に跨がり漕ごうとしたが、自転車はもはやブレーキ以外の全ての機能も失ってただの鉄屑と化していた。
そこで初めて、私は自分が轢かれた事を知った。

やがて救急車が到着して、私は救急隊員と私を轢いた張本人(今思えばその時1回位ブッ飛ばしとけば良かった)に支えられて病院に搬送された。。。

私が入ったのは所謂救急病棟だった為、部屋はいつも慌ただしかった。
その男が私の隣のベッドに入ってきたのは多分深夜3時位だった。
血塗れで喚き散らし、6人の大人に押さえつけられたその男は、未だ自らの力では何もできない乳児のようにこの世の全てに不満を抱いている様に見えた。
もちろん、実際はそんな可愛いものではなかった。
男はとにかく自由を渇望している様で、隙有らば看護士に頭突きを食らわし、その度に部屋に鼻血と怒号がとんだ。やがて男はベッドにぐるぐる巻きに縛りつけられ、手足の自由を完全に奪われると、暴れる路線から怒鳴る路線に速やかに作戦を切り替えた。車に轢かれて多少なりとも参っていた私にとって、これはこたえた。急に震源地が隣に越してきたみたいだった。
縛りつけた男の処置が終わると、医療従事者達はそそくさと部屋を出ていった。
これは実際とんでもない事だった。縛られているとはいえ、猛獣が隣にいたら全く心安らかではない。いつその枷を引き千切って襲いかかってくるか知れたものではない。そんなスリル要らない。私は戦々恐々として朝が来るのを待ったが、こういう時、朝というのは中々やって来ない。変わらず続く獣の怒鳴り声に辟易として、もうサファリパークなんて一生行かない、何て誓いを立てた辺りで、何かが耳に入った。

それは、「WHISKEY」という単語だった。そもそも男が入ってきた時から私は身の危険を感じるばかりで、まさかそんな狂暴な男に主張があるなんて考えもしなかった。男はへべれけと言って良い状態だったし、叫びすぎて喉は殆ど潰れていたので、男の声は終いの方には怒鳴り声というよりは咆哮といった体だったが、確かによーく聞いていると何か同じフレーズを繰り返していた。

何てこった。
男が渇望していたのは自由ではなくウイスキーだったのだ。
或いは、ウイスキーと云う名の自由だったのかも知れない。

世の中にはグッドタイミングというのがあるもので、轢かれた時の着の身着のままでベッドにひっ転がされていた私のヒップポケットでは、とある小瓶が確かな質量をもってその存在を主張していた。しかも、あろうことかその小瓶には、ジャックダニエルが入っていた。。。
男のヒップポケットには大体ウイスキーの小瓶が入っている、という時代だったのもともかく、自転車はスクラップと化し私の右頬や右肩はすっかりハンバーグと化したと云うのにその小瓶が割れなかったのは、もはや僥倖と言って良かった。
当時21歳で、大概の事は失敗しても走って逃げれば何とかなる、と信じていた私は、割に迷うことなく「ウイスキーがある」ということを男に伝えた。
「飲みますか?」 「ゴウゴウ(さっさとよこせ)」
「どうしましょう?」 「ゴウゴウ(口に注ぎやがれ)」
「もういいですか?」  「ゴウゴウ(全部だバカヤロウ)」
といった幾つかの親密な言葉を交えながら、外国の明け方の病室で縛り付けられた大男の口にウイスキーを注ぐ、というこれまたおよそロマンチックとはかけ離れた作業は進行していった。それは、なんというか儀式みたいだった。
ボトルが半分ほど空いた辺りで唐突に男が言った。
「ゴウゴウ」
それは全く予期しない言葉で、私は一瞬理解できないほどだった。
男は確かに、「お前も飲め」と言ったのだ。
私は仰天ビックリしたが、誰が見ても酒でも煽らなければやってられない状況の渦中にはいた。そこで、遠慮なくご相伴に預かることにした。

ゴクリ。

いつもは甘くすり寄ってくるジャックダニエルだったが、その時は何の味も感じなかった。
けれど、気のせいだったかも知れないが、ウイスキーを飲んだ私を見て、男は心なしか嬉しそうに見えた。
ゴウとも言わない男の口に、私はウイスキーを注ぎ込んだ。

気付けば男と私の間に言葉はなかった。
「ゴウゴウ」 「ゴクゴク」
それだけで良かった。
暫くしてボトルは空になった。
男はその後、一口もウイスキーを呉れなかった。

酒は言語を越える。
初めて身を以て感じた瞬間だった。
それは理屈ではない。
酒を飲まないことが良い悪いとは言わないが、確かに酒飲み同士にしか解らない色気みたいなものはあるのだな、ということを知った夜だった。
お酒を売る商売をしていることも多分に関係していると思うのだけど、あの特別な晩の事は、今もたまにだけれど思い出す。
お店を構える、ということは基本的には待ちの商売だ。雨の日も風の日も、毎日きちんと仕込みをして店を開ける。そこにお客さんがたくさん来てくれる日もあるし、そうでない日もある。忙しくなっても何故か心が荒む夜もあるし、暇だけれど、たった一人のお客さんのおかげで忘れられない大切な夜になることだってある。

あの晩、確かに一瓶のウイスキーが邂逅をもたらしてくれた。
あんな事は当然毎晩は起こり得ない。けれど、もしかしたらそれは今夜起こるかもしれない。
お店に立っていると、ついそんな風に思ってしまうのだ。

そうなると、もう飲食店をやめられない。