2015年7月28日火曜日

これでもだいぶ短くしたから許して。

映画を観る限りイタリアのマフィアの皆さんというのは随分と手荒い様に見受けられるが、私もまったくそう思う。
勿論私はそんな本職の皆さんとどうこうなったことはない。ただ、少々やんちゃで少なからぬユーモア精神も併せ持ったイタリアの方々と、若干の交流を持ったことがあるだけである。

その人たちは隣の店に勤めていた。
というか、社長のガローネを始め末端の従業員に至るまでイタリア系の移民で構成されていたから、そんなイタリアンなお店が隣にあった、と言った方が正確かもしれない。
原則、彼らは陽気だった。どれ位陽気かというと、私の車のガソリンタンクに水を80リットル注ぎ込む位だ。

あれから17年の月日が流れた今だから認めるが、事の発端は私にあった。

当時私の勤めていたレストランは、一つの建物を均等に三分割したテナント物件の真ん中にあった。正面向かって左側にはベジタリアン達が集うカフェがあったがそこは既に制圧済みで、私たちの次なる敵は、向かって右側に位置するイタリアンレストラン「ガローネ」だった。
そう。全ての21歳がそうであるように私達もまた、自分達が生きていることを立証するための敵を必要としていて、よせばいいのに夜な夜な敵ばかり探し歩いていた。
私達、というのは同僚のチャン(韓国籍)とメッシ(イタリア籍)、チャンの親友のロメオ(韓国籍)で、誰も面白いことを言わないくせに、私達は何故か気が合った。
チャンは本名で、メッシは本当はロッシとか何とか言う名前だったが、かつてとある罪を犯した代償としてゴミ箱に詰め込まれた事件以来messy(=汚い)と皆に呼ばれていた。ロメオは当時付き合い出した彼女(韓国籍)のイングリッシュネームがジュリアだったと云うだけで、ある日急に「今日からオレの事はロメオと呼んでくれ」等とほざきだした変わり者だった。後に私がジュリエットじゃないのに何でロメオなんだ?と投げ掛けた問いに対する彼の答えは、「あ。間違った。」であった。

いや。話が逸れてしまった。

そう、店の立地の話である。
店の建物の前には3店共用の駐車場があったのだが、暗黙の了解のうちに、自分の店の真っ正面に位置する6台分のスペースが、それぞれのお店の専有駐車場と見なされていた。が、この駐車場は従業員だけでなくお客さんも使うので、忙しい週末などは争奪戦が頻繁に起こった。我々は自店の駐車場が一杯になると隣のカフェの駐車場を堂々使ったが、それでも足りない時がたまにあった。
そんなとある金曜の夜に、私はその晩珍しく暇そうだったガローネの専有スペースに車を停めてしまったのだ。
イタリアンな専有スペースに無断駐車すると車のタイヤは燃やされる、なんて大人になればみんな知ってることだけれど、若かった私にはそんな初歩的な常識観念すらなかった。

その日、仕事を終えて外に出ると、駐車場で何かが燃えていた。火を見るだけで嬉しくなってしまうような年頃だった私は、こんな大発見はないとばかりにワクワクしてチャンとメッシを呼びに行った。火を見ると案の定二人とも大喜びで、無駄に粗大ゴミを漁ってきては火にくべて、そんなに飲みたくもないビールをガブガブ飲んだ。我々は滅多にない駐車場での焚き火の機会を最大限に堪能することに必死で、一体何が何故、最初に燃えていたのか考えようともしなかった。

一人くらい気付けよ。。。

それ故、宴がお開きになって車に乗ろうとしたときの私の落胆ぶりはひどかったし、二人の喜びようも尋常ではなかった。チャンはニヤニヤしながら追加のビールの栓を開け、メッシは路上でのたうち回って大笑いして、直後に全く別の理由でのたうち回る羽目になった。

私の愛車の右前輪は、そこにひっついていなければならない筈の本体から一人立ちして、すっかり異臭と煙を放つ黒い塊と化していた。タイヤ君の一人旅は、最悪の結果に終わったように見えた。4つしかないタイヤの1つを焼失した車は何だかとても悲しそうに見えて、私は怒りよりもむしろ酷い悲しみにうちひしがれた。クルマ君に大変申し訳ない事をしたような気になったのだ。

が、夜が明けて陽が昇る頃には私は復活した。
即ち、激しい怒りが悲しみに取って代わった。
いや。その時分の私は知らなかったが、いつだって激しい怒りは深い悲しみの後に来るものなのだ。

私はその日、一日中プンスカしながら働いた。上司も他の同僚もみんな事情は知っていたが、私に話し掛けても慰めても私が無言でプンスカしているだけなので段々面倒くさくなったようだった。私の嫌いな西洋圏独特の「やれやれ」とでも言いたげな両腕を大きく左右に開くジェスチャーも、その日に限っては私を煩わせる事はなかった。
私のプンスカ具合は既に最高潮にマックスだったのだ。
仕事を終えてお隣のイタリア諸兄が帰るのを待ち、我々は早速ガローネ所有のメルセデスのタイヤを捨てた。私は一つで充分だったのだが、面白そうな匂いをいち早く嗅ぎ付けて出張ってきたロメオがそれじゃダメだとしゃしゃってきた。彼は、「ALL FOR ONE ! ALL FOR ONE!」とどこかで聞きかじってきたフレーズを連呼していた。我々には何の事かさっぱりだったが、どうも、四輪とも外しちまえ、ということらしかった。FORとFOURを勘違いした上に、明らかに意味も解ってない彼に説明するのは面倒だったので、我々は結局四輪とも、たまたまそこにあったつるはしとグラインダーで切り刻んで捨てることにした。

これにて一件落着。
な訳はなく、翌昼には私の車のフロントガラスには4ダース程の卵がこんがりと焼き付いて香ばしい匂いをたてていた。オーストラリアの容赦ない陽射しを受けたフロントガラスとボンネットである。かんかんに空焼きしたフライパンみたいになっているのである。連中がそこに気の利いたオリーブオイルを引くか?答えはノーである。かき混ぜられてぶちまけられた大量の卵はそれは熱い思いをしただろう。あっという間に焦げ付いたことだろう。結果私は新しいフロントガラスに取り替えた上、ボンネットは暫くの間食べ残しのひどい朝食皿みたいな状態で過ごさざるを得なかった。

これに怒ったのはロメオだった。
彼は職場も違ったし当然私の車に対する如何なる責任も負うところがなかったが、彼は怒り(と、今思えばある種の喜び)にうち震えていた。
彼は我々が止めるのも聞かずにその晩単独でガローネのメルセデスのオイルを抜き、その報復として翌日、私の車のガソリンタンクには80リットルの水が注ぎ込まれていた。

だからやめろって言ったんだよ。。。

優秀な奴ほど仕事が早い、とは言うが、これは私の予想より遥かに早かった。
昨日は原価をかけた嫌がらせだったのに今日は0円かよ、なんて不平を言っている場合ではなかった。
そしてこのレスポンスの早さは私の心を挫くのに充分だった。
良く良く考えてみれば損しているのは私とガローネだけで、儲かっているのは車屋だけだった。あとの連中は実際楽しんでいるだけだった!奴らは焚き付けるだけ焚き付けておいて結果私がしょんぼりするのを見ては憤って見せたり慰めてみたりして遊んでいた。
車屋も車屋でトムとジェリーみたいな男で、いかにもお気の毒と言うような体で度々私のところに来たが、いつだって両の眼がドルになっているのを私は知っていた。
「四駆車のタイヤだからちょっと値が張るねぇ(チャリーン)」
「こいつは古い型だから取り寄せに時間が掛かるよ(チャリーン)」
「何たって今日は日曜だからねぇ(チャリーン)」
「これは……水だね……(チャリーン)」

結局その晩私はディナー営業中のガローネに文句を言いに行き、ガローネは不遜な態度でそれを許した。
どうも彼らも驚いていたらしい。見せしめに燃やした筈のタイヤ。まさか自らそこに木をくべて嬉々としている日本人がいる、と。
私はただ、知らなかっただけなのに。

若かった私は謝ることが大嫌いだったが、ガローネが先に頭を下げた事に少なからぬ満足を覚えて、謝罪の言葉を述べた。そして、握手までした。
金もかかったし手間もかかったけど、今回は痛み分けってことで。
そう思った。

その暫く後に、隣街のカフェで私の車屋とガローネがお茶をしているのを見るまでは……。

明確な落とし処を出来るだけ早い段階で作っておくこと。
ガローネが私に教えてくれたこと。

今日は、そんなどうでもいい話でした。

 

2015年7月13日月曜日

また長くなってしまった……。時間あるとき読んでね。

今までの人生で4回だけ車に轢かれたことがある。
引きの強い人間は悪いものも引き寄せてしまう、とか慰めてくれる人もいるが、どうもしっくり来ない。理由なんて多分ないのだろう。あったとしても、少しぼんやりしていた位のものだと思う。
しかし、轢かれた場所が3か国にわたるということを考えると、もしかしたら世界基準のぼんやり具合だったのかも知れない。

どの件に関しても言いたいことは山ほどあるが、中でも4回目のは酷かった。

あの時私は局留めの手紙を受け取りにいくためにパースという街の中央郵便局に向かっていた。南半球の5月は丁度街路樹が色付き始める秋の入り口で、自転車の私にはそれでなくても長い下り坂は快適だった。
交差点の青信号を突っ切ろうとした時、右折の対向車が私めがけて突っ込んで来るのが妙にはっきり見えた。
ああいう時、時間は限りなく細かく刻まれて、一秒が永遠のように長くなる。結果、全ての事象が恐ろしくスローに見える。
当時の私の愛車には、ブレーキという機構が備わってなかった。マイブームだった軽量化が極端に進行していた私には、それはただの重量のある部品の集合体に過ぎず、自転車を入手したその日にさっさと撤去してしまったのだ。それ故止まりたい時には右の踵を前輪に擦り付けなければならなかったが、無駄が削ぎ落とされた満足感の方が不便さよりも数段勝った。明らかに右だけ削れてびっこになったスニーカーも何故か私を満足させた。
しかし、私が長く慣れ親しんで来た自転車は、止まる時にはブレーキレバーを引くというシステムを導入したものだった。今まさに車が自分を轢こうとしている、というような緊急事態宣言発令時にこそ、長年積み重ねてきた反復作業とは本領を発揮するもので、私の左手は無意識のうちにそこにないブレーキレバーを探し求めた。
全てがスーパースローに見えるからといって、事態に対処できるものではない。自分もスーパースローでしか動けないからだ。リタ ヴラタスキではない、ただの凡人の私は、自分の体がゆっくり車に触れて意識が飛ぶその時まで、見えないレバーを引き続けた。何度も何度も。とてもゆっくり。

気付いた時私の上には車が乗っかっていたというのに、私は車に轢かれたのだ、という事実を認識しなかった。世の中にロマンチックからこんなかけ離れた事があって良いのか、と憤ることもなかった。
やがてどこかの親切な人が何らかの方法で車を浮かせてくれたので、私は外に這い出て立ち上がった。全身痛いような気はしたが、早く行かないと郵便局が閉まってしまう、ということの方が重要だった。私は自転車に跨がり漕ごうとしたが、自転車はもはやブレーキ以外の全ての機能も失ってただの鉄屑と化していた。
そこで初めて、私は自分が轢かれた事を知った。

やがて救急車が到着して、私は救急隊員と私を轢いた張本人(今思えばその時1回位ブッ飛ばしとけば良かった)に支えられて病院に搬送された。。。

私が入ったのは所謂救急病棟だった為、部屋はいつも慌ただしかった。
その男が私の隣のベッドに入ってきたのは多分深夜3時位だった。
血塗れで喚き散らし、6人の大人に押さえつけられたその男は、未だ自らの力では何もできない乳児のようにこの世の全てに不満を抱いている様に見えた。
もちろん、実際はそんな可愛いものではなかった。
男はとにかく自由を渇望している様で、隙有らば看護士に頭突きを食らわし、その度に部屋に鼻血と怒号がとんだ。やがて男はベッドにぐるぐる巻きに縛りつけられ、手足の自由を完全に奪われると、暴れる路線から怒鳴る路線に速やかに作戦を切り替えた。車に轢かれて多少なりとも参っていた私にとって、これはこたえた。急に震源地が隣に越してきたみたいだった。
縛りつけた男の処置が終わると、医療従事者達はそそくさと部屋を出ていった。
これは実際とんでもない事だった。縛られているとはいえ、猛獣が隣にいたら全く心安らかではない。いつその枷を引き千切って襲いかかってくるか知れたものではない。そんなスリル要らない。私は戦々恐々として朝が来るのを待ったが、こういう時、朝というのは中々やって来ない。変わらず続く獣の怒鳴り声に辟易として、もうサファリパークなんて一生行かない、何て誓いを立てた辺りで、何かが耳に入った。

それは、「WHISKEY」という単語だった。そもそも男が入ってきた時から私は身の危険を感じるばかりで、まさかそんな狂暴な男に主張があるなんて考えもしなかった。男はへべれけと言って良い状態だったし、叫びすぎて喉は殆ど潰れていたので、男の声は終いの方には怒鳴り声というよりは咆哮といった体だったが、確かによーく聞いていると何か同じフレーズを繰り返していた。

何てこった。
男が渇望していたのは自由ではなくウイスキーだったのだ。
或いは、ウイスキーと云う名の自由だったのかも知れない。

世の中にはグッドタイミングというのがあるもので、轢かれた時の着の身着のままでベッドにひっ転がされていた私のヒップポケットでは、とある小瓶が確かな質量をもってその存在を主張していた。しかも、あろうことかその小瓶には、ジャックダニエルが入っていた。。。
男のヒップポケットには大体ウイスキーの小瓶が入っている、という時代だったのもともかく、自転車はスクラップと化し私の右頬や右肩はすっかりハンバーグと化したと云うのにその小瓶が割れなかったのは、もはや僥倖と言って良かった。
当時21歳で、大概の事は失敗しても走って逃げれば何とかなる、と信じていた私は、割に迷うことなく「ウイスキーがある」ということを男に伝えた。
「飲みますか?」 「ゴウゴウ(さっさとよこせ)」
「どうしましょう?」 「ゴウゴウ(口に注ぎやがれ)」
「もういいですか?」  「ゴウゴウ(全部だバカヤロウ)」
といった幾つかの親密な言葉を交えながら、外国の明け方の病室で縛り付けられた大男の口にウイスキーを注ぐ、というこれまたおよそロマンチックとはかけ離れた作業は進行していった。それは、なんというか儀式みたいだった。
ボトルが半分ほど空いた辺りで唐突に男が言った。
「ゴウゴウ」
それは全く予期しない言葉で、私は一瞬理解できないほどだった。
男は確かに、「お前も飲め」と言ったのだ。
私は仰天ビックリしたが、誰が見ても酒でも煽らなければやってられない状況の渦中にはいた。そこで、遠慮なくご相伴に預かることにした。

ゴクリ。

いつもは甘くすり寄ってくるジャックダニエルだったが、その時は何の味も感じなかった。
けれど、気のせいだったかも知れないが、ウイスキーを飲んだ私を見て、男は心なしか嬉しそうに見えた。
ゴウとも言わない男の口に、私はウイスキーを注ぎ込んだ。

気付けば男と私の間に言葉はなかった。
「ゴウゴウ」 「ゴクゴク」
それだけで良かった。
暫くしてボトルは空になった。
男はその後、一口もウイスキーを呉れなかった。

酒は言語を越える。
初めて身を以て感じた瞬間だった。
それは理屈ではない。
酒を飲まないことが良い悪いとは言わないが、確かに酒飲み同士にしか解らない色気みたいなものはあるのだな、ということを知った夜だった。
お酒を売る商売をしていることも多分に関係していると思うのだけど、あの特別な晩の事は、今もたまにだけれど思い出す。
お店を構える、ということは基本的には待ちの商売だ。雨の日も風の日も、毎日きちんと仕込みをして店を開ける。そこにお客さんがたくさん来てくれる日もあるし、そうでない日もある。忙しくなっても何故か心が荒む夜もあるし、暇だけれど、たった一人のお客さんのおかげで忘れられない大切な夜になることだってある。

あの晩、確かに一瓶のウイスキーが邂逅をもたらしてくれた。
あんな事は当然毎晩は起こり得ない。けれど、もしかしたらそれは今夜起こるかもしれない。
お店に立っていると、ついそんな風に思ってしまうのだ。

そうなると、もう飲食店をやめられない。

2015年7月9日木曜日

やっぱり肉が好き。

昔の話だけれど、オーストラリアの牛の解体工場で不法労働をしていた。
朝6時から始業して、夕の18時までに200頭捌く、割にデカイ工場だった。
工場に着いて車を降りると、人は否応なく二種類に振るい分けられた。降りて歩行可能な人間と、降りた瞬間にうずくまって嘔吐する人間と。男女であるとか国籍であるとか、屈強であるとかないとか、そんな事は関係なかった。
あれだけの質量のある生き物が日に200頭お亡くなりになるそこは、言うなれば死の臭いで充満していた。それ故、その工場は半径70km以内に何もないところにあった。

当時19歳で、まだ恐いものも女心も全く理解しない小僧だった私には、当然その「臭い」を感知する機能など備わっておらずおかげでもりもり働けたが、一日中牛の内臓をかき出す単純作業には閉口した。コンベアーに乗って流れてくる牛の内臓をかき出す→ホースで水洗いする→顎の下に巨大なフックを刺す、という三工程を10mの持ち幅の中で完了させるには、体力と根性以外に、一切の感情や思考を一時的に凍結させる、みたいな特殊な能力が必要で、私にとっては何よりそれが難しかった。
しかし、救いはあった。荒くれ者ばかりが500人も詰め込まれた工場では頻繁に喧嘩が勃発した。内臓係とか箱詰め係、計量係以外の人間は、吊られた牛を手元に引き寄せるための鋭い鉤を左手首に、肉を切り落とす用のちょっとした刀みたいなナイフを右手に持っていて、ほぼフック船長化していた。ナイフは手を離せば下に落ちるがフックはそうもいかない。外すのには多少時間がかかるし、そんなことしてたらのされるのは誰の目にも明らかだったので、喧嘩は例外なくフック付きで催された。それ故毎回酷いことになったし、そのうちの何回かはついうっかりしたのか二人とも右手のブツもそのままに突入したので、凄惨といっても良い状態になった。
本当に悪いのは周りの人間達だった。喧嘩中はラインが止まって働かなくても良かったので、我々は二人を止めるどころかあの手この手で必死に煽り立て、怒り過ぎてパンパンになった監督がとんでくると即座に、作業が出来なくていかにも不服だという顔をした。

そんな職場での唯一の楽しみが昼飯だった。
そこは牛肉工場の社員食堂、ビーフステーキが兎に角安かった。
当時街で一番安いフードコートに行くと、1パウンドのTボーンステーキにてんこ盛りのライスとマッシュポテトにビールが一瓶付いて、約800円だった。この地上に天国があるとしたらここだなって思ってたけれど、その食堂では値段は更にその半額以下だった。仕事は嫌だったけれど、その食堂には永住しても良かった。
唯一の友人といっていいBinksは場内で3番目に腕が良くて2番目に強くて気の短さは1番という暴れん坊だったし、持ち場が隣のPatrickは暇があれば有事に備えてナイフを研いでいたし、直属の上司Edwinは水筒にラム酒を隠し持っていた為いつも妙に甘い香りを漂わせていたし。どちらかと言えば環境良好とは言い難いその職場において、完全弱者である私にとって肉というのは力そのものだったし、「肉を食べる」という行為は、「生きる」という行為そのものだった。
当時19歳で、肌の白い女の子の事と、どうやって日本に辿り着こうかという事で頭が目一杯だった私は、当然そんな小難しいことに考えが及ぶ筈もなかった。けれど、仕事柄一切の牛肉が食べられなくなってサラダや揚げた魚をモソモソ食べている先輩達を尻目に、親の仇でも取るかのような勢いで飽きもせずガブガブとステーキを食らった。これといった理由なんてなかった。全身が肉を欲していた。胃に落ちた肉は確かな質量をもってやがて熱となり、身体中を巡り、私に活力とやる気を与えた。そうして得た力を、私は全力で午後の喧嘩の応援に当てた。

今思えばこれが私のビーフステーキの原体験かもしれない。

肉は人を裏切らない。きちんと食べた人の身になるような肉を提供できたら良いな、何て事を考えたり考えなかったりで、今日も肉を焼いております。

2015年7月1日水曜日

フェイスブック、始めました。

エクスペリアなる実に21世紀的な機器を所有して、早2週間……。食欲は低下し睡眠時間は減り手酌の量は増えると言う、典型的な初期型タブレット症候群との戦いの日々が続いております。
主食は肉、主要資産は根性、ケータイはパカパカという前時代的な生活を謳歌してきた私にとってはこのキーボードを打つところからして苛立ちの連続で、いくら探してもPやらBが見つからず、『不良品掴まされた!』と何度この薄板をへし折ってやりたい衝動に駆られたことか…。或いは指先が画面に感知されず、文字は読めているのにその上を虚しく何分こすり続けた事か……。

ふぅ。

が、そんな不束な私ですが、折角なのでフェイスブックなるものを始めました。テキーラダイナーの所謂お店ページという奴です。そのページのリンクをここにペタリと張るなどと言う大それた技は私当然未修得ですので、そこは私なぞより昨今のインターネット事情にお詳しい読者諸兄にお任せ致します。
少しずつですが投稿していく予定なので、読んで頂いて、良し、と思っていただければ「いいね」、を、悪しき、と思われた方はその旨お伝え頂ければ、と思っています。

どうか実店舗共々宜しくお願い致します。